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思考録

個人の感想であり、効果・効能を示すものではございません。

平和主義について

私は平和主義者だ。

ただし、究めて個人的な欲求に基づいて平和を求めるものである。

私は、ケガをしたり死んだりなんかしたくないのだ。

戦争によって耐乏を強いられるのもイヤなのだ。

 

 

さて、世の中には少なくとももう一種類の平和主義者がいるようだ。

きわめて「立派」な、理想的な平和主義者たちである。

「戦争をしないためならば死んでもいい」と思っている人たちのことである。

いや、本当に心の底からそう思っている人間がいるなんて信じたくないし信じてもいない。しかし、表向きそのような言動をする人はいる。

本当は、ただ私と同じで、ケガをしたり死んだり耐乏を強いられたりするのがイヤなだけなのに、手段というか、目的というか、方法というか、どこかしらで間違ってしまっているだけに違いないと私は信じている。

 

私なんかは、彼らのように理想が高くなんかないので、とにかくケガをしたり死んだり耐乏を強いられたりするのがイヤなだけで、戦争なんかイヤだ、平和がイイ、と言っているに過ぎない。

 

だから、ケガをしないための手段、死なないための手段、耐乏を強いられずに済む手段が「戦争をすること」ならば、間違いなく戦争を支持するだろう。軍備を増強するだけとか、外国と同盟を結ぶだけとか、そういうことで済むならば、それだけで済ましてもらいたいのだが。

そして、そのように考えると、どうしても現行日本国憲法第9条は私の平和主義に反してしまう。

防衛のための軍備を持つことすら怪しく、外国と同盟を組むことすら難しく、攻撃を防ぐための先制攻撃すらおそらく不可能であるようなあの規定は、私にとっては身の危険を感じる「危ないしろもの」である。

あの規定を馬鹿正直に守るとなると、我が国を守るものは「無防備な我が国を攻撃することに対する、国際社会からの批難」という脆い抑止力だけになってしまう。

「国際社会からの批難」が有効な抑止力だと信ずる人たちは、かつて「世界の警察」を標榜した超大国アメリカ合衆国が国際社会から批難を浴びることがあっても行なった戦争を一体どう説明するのだろう。一度は落ちぶれながらも、今や大国としての地位を取り戻しつつある中国が、国際社会からあれだけ批難されているにもかかわらず、南シナ海で比較的国力の弱い国々に対して行なっていることを一体どう説明するのだろう。

「これまで大丈夫だったから、大丈夫。」「そんな可能性はない。妄想だ。」というのは、福島第一原発事故の教訓をなにも得られていないから、却下である(そもそも説明になっていない)。